モナ・バッシングの本質
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作成日時 : 2008/07/16 20:50
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モナ・バッシングはなかなか止まない。しかし、「不倫好きの女性」を「モナ女」と呼ぶのはどうだろうか。はしゃぎ過ぎというか、悪乗りのし過ぎという感じがする。別に、山本モナが可哀想だとは思わない。メディアの未成熟感がたまらなく、いとわしいだけだ。持ち上げる時は持ち上げ、落とす時は落とす、その定見のなさ、大勢順応型の姿勢が、一種言いがたい嫌悪感を抱かせる。
日本ほど「特異性を否定する」社会はない。例えば、日本の教育制度は、徹底的に「天才を否定」している。飛び級制度すらない。標準化された人間の育成に力が注がれているのが実情である。で、このような傾向は、日本社会の隅々にまで蔓延してしまっている。
ひるがえって、山本モナという女性を見てみようか。「美人で、頭が良く、更に男性からモテる」という同性からは、うらやましい限りの存在である。それは十分に特異な存在であり、排斥するに十分な要素足りえる。そこに、不倫という理由付けができたため、バッシングが一気に強まったと思われる。
今回のモナ騒動の根底にあるもの、日本社会にある薄暗くドロドロとした疫病の如き悪癖が広がっているのではないか。閉鎖社会の持つ独善性のようなものが垣間見られて、気分の良いものではない。山本モナ個人に対してではなく、彼女の置かれた状況には深い同情を覚えてしまう。
しかし、どう考えても、山本モナは馬鹿だ。自分の置かれた立場がまったくわかっていない。らしくないのか、山本モナらしいことなのかは不明だが。人の世とは、つくづく不思議なものよのう。
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