怨霊の日本政治 2

2.菅原道真
菅原道真は忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であった。次ぎの醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし、同朝において、謀反を計画(昌泰の変)したとして、大宰府へ大宰員外帥として左遷された。その2年後、現地で死没した。

寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップとなる体制となる。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。醍醐朝では、左大臣時平、右大臣道真という体制になったものの、長くは続かなかった。

昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、1月25日に大宰員外帥に左遷された。子供全員も流刑に処せられた。

問題は、ここからである。単なる悲劇、不運ではなかった。道真左遷に関連した、藤原菅根が延喜8年(908年)に病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳という若さで病死した。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨去した。延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た。それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3カ月後に崩御した。

更に、天変地異が相次ぎ、「これらは菅原道真公の祟りである」との声が巷にあふれた。朝廷は、菅原道真公の祟りを怖れ、その鎮魂に力を注ぐ。政治が右往左往してあたふたしているかの様である。

延喜23年4月20日(923年5月13日)、正二位を贈られた。
天暦元年(947年)に北野社において神として祀られるようになった。
正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント